編集後記(2009年 6月13日号)


【No.0623】 このコーナーは「週刊ゆたんぽ」をパクって作られています。


 みなさんごぶさたしております。 伝えるべきメッセージは、何としても伝えねば。

●ミサワコールよ永遠に

 こんなニュースで更新再開することになろうとは、無念でなりません。

<プロレスラー>三沢光晴さん死亡 試合中倒れる 広島

 13日午後 8時半ごろ、広島市中区基町の広島県立総合体育館であったプロレスリング・ノア広島大会で、試合中にノア社長でプロレスラーの三沢光晴さん(46)が倒れ、心肺停止状態で広島大学病院に救急搬送された。 県警広島中央署によると、同 10時10分に死亡が確認された。 同署は主催団体や対戦相手などから事情を聴いている。

 三沢さんは栃木・足利工大付高でレスリング部に所属し、81年に全日本プロレスへ入門。 84年にマスクマンのタイガーマスク(2代目)となり、人気を博した。 90年からはマスクを脱ぎ、本名で活動。 ジャイアント馬場ジャンボ鶴田両選手(ともに故人)に次ぐエースとして活躍した。 00年に全日本を退団してプロレスリング・ノアを設立し、社長を兼務。 受け身のうまさには定評のあるレスラーだった。

 合掌。 残念。 無念。 執筆現在 14日 0:30、まだ全身の力が抜けたまんまです。 私の想いを世に伝えるため、ファンであったことの証を残すため、衰えた文才に喝を入れて一号リリースします。

 オレが初めて三沢さんを見たのははっきりしてて、1993年 6月 1日の川田田上組対三沢小橋組の日テレ中継。 小橋が負けちゃったけどその強さ、受身のうまさ、よそと違って口先に出さないスポーツマンシップ。 わずか一試合ですっかり惚れてしまった。

 駅前のおもちゃ屋に「全日本プロレス」というソフトが偶然並んでいたので、オレはスーパーファミコンを買った。 日テレ中継を毎週録画して繰り返し見ていたので、福澤明アナにちなんでオレは「福澤ジャストミート諭吉」というハンドルネームを名乗った。 もう過去のコーナー「えむぴー」で三沢さんの戦歴を取り上げる特集も組んだ。 数人の友人知人を全日ファン、ノアファンにしてみせた。 三沢さんは間違いなく、学生時代のオレにとってヒーローであった。

 万雷のミサワコールは届かなかった。 死が伝えられるまでの短い間、オレはこの歳にして初めて 2ch にミサワコールを何度も書き込んだよ。 世界一の受身の達人が殺人バックドロップを受けて亡くなるなんて、この世に「絶対」はないってことなんだよなぁ…。

 三沢さんありがとう。 本当にありがとう。 世の中に惜しまれる去り際は数あれど、こんなに本心から感謝を言える別れはありません。 私は三沢光晴のファンであったことそしてノアファンであったことを、遠慮することなく誇りたいと思います。 安らかにお休みください。